コラム

ラディカルな「中途半端さ」について ―宮前正樹のワークショップ

遠藤水城×稲垣立男

「ワークショップ」がまだ耳馴染みのない言葉だった1980年代から、宮前正樹というアーティストがさまざまな試行錯誤を重ねていました。WORKS_HOPでは、宮前さんの実践の熱(ほとぼ)りーー「ダイナミズム」と「ぞわぞわ」ーーを感じられる場として、ひとつの対談を共有します。継続的に宮前さんの実践を紹介されてきた稲垣立男さんに、インディペンデントキュレーターの遠藤水城が迫ります。
対談実施日:2025年7月30日(肩書き・プロフィールは収録当時のものです。)

遠藤水城×稲垣立男

遠藤水城(以下・遠藤) この対談では、宮前正樹(1957〜2000)という作家の全活動を網羅的に追うのではなく、彼の活動の中心にあった「ワークショップ」というものについて考えてみたいと思います。稲垣さんご自身もワークショップ、プロジェクト型の作品を主な活動としています。宮前さんと稲垣さんのおふたりについて、同時にお話を伺えるようにできないかしら、と思っています。とはいえ、稲垣さんの企画した、黄金町での宮前さんの回顧展1が、まず大きな成果としてあったことを前提に始めたいです。

注釈1 「宮前正樹とワークショップ」、高架下スタジオSite-Aギャラリー(横浜市黄金町)、2015年10月1日―11月3日

「宮前正樹とワークショップ」展示風景
同上
同上

稲垣立男(以下・稲垣) そうですね。宮前さんの人生と活動を辿って、総合的に評価するというようなことはできないし、私がやるべきでもないと思っています。当時の私は宮前さんのことを検証しながら、それを自分の活動と照合しようとしていました。その発想から黄金町での展覧会を企画したところがあります。

遠藤 稚内が発端ですね。

稲垣 そうです。2003年に私が稚内北星学園大学に赴任したのが始まりです。当時初めて大学というところに職を得ました。その際に大学に残されていた宮前さんの資料を辿っていくことになりました。彼が在籍していたのは非常に短い期間でした。宮前さんは新しい学科の立ち上げに1999年から関わっていました。その学科は2000年の4月にスタートしたんですが翌5月には病気で亡くなられてしまった。彼の死によって、彼の大学でのプロジェクトは中断したともいえますが、他の先生たちによって継続されていたものもありました。私の仕事は、その状況をまず理解することから始まりました。

遠藤 宮前さんの残したものが応用可能な何かとしてあったということになりますね。宮前さんから何を引き継ごうとしたのかについて伺う前に、稚内に赴任される前の稲垣さんの在り方について少しお聞きしてもいいですか。赴任前の稲垣さんの実践のなかに、宮前さんの意図を理解する素地が含まれていたと推測するのですが。

稲垣 私は多摩美術大学を卒業してから、海外でのアーティスト・イン・レジデンスに積極的に参加していました。展覧会やプロジェクトに声をかけられるということもありました。いずれにしても私はなにかできたものを持っていくのではなくて、まったく手ぶらで現地に赴いて、そこで得たものから作品なりワークショップなりを成立させるという方針でやっていました。

遠藤 稲垣さんにしても宮前さんにしても、やっていたことを一言で表すのが難しいですよね。リサーチベースド、参加型作品、ワークショップ、ソーシャリー・エンゲージド・アートなど、力点によって呼び名が乱立している。

稲垣 当時はそんなにたくさんの単語がなかったんです(笑)。宮前さんも私も同じだと思うんですが、当時は用語の整理がないままに、さしあたりワークショップと呼んでいた状況だったと思います。

遠藤 稲垣さんがそのようなスタイルに至る前史というか、リソースのようなものはあるんでしょうか。どのようなコンテクストでそのスタイルが可能となったのでしょうか。

稲垣 多摩美では油画を専攻していたんですが、画家にはならず、修士課程では美術専攻で現代美術のことを学びました。いま思うと、大学院時代に体験して大きかったのは「表現の現場」展です。多摩美に代々伝わる、学生が主体となったアンデパンダン展で、オープンスタジオという性格もありました。そのときに「社会と美術」というテーマを設定したんですね。学生たちが卒業後に社会とどのように接点をもって美術をやっていくのか。自分たちなりに真剣な問題だったんです。1989年、修士2年生の頃です。私は「発表の場を巡って」というシンポジウム2を企画しました。展覧会には浅見貴子(日本画)、浜田涼(油画)、梅津元(芸術学、キュレーター)などがいて、その後のアーティスト・コレクティブに至る流れが胚胎していたと思います。当時、やはり美術といえば銀座の画廊がどうとか、そういう話だったんです。貸画廊で展覧会を重ねてキャリアを構築するのがまだまだ主流だったと思います。その状況に疑問をもっていました。その後、1992年に初めて海外でプロジェクトに参加する機会を得て、フィリピンとオーストラリアに行ったときに、自分が日本でやってきたアートと共通する土台がない、という経験をしました。そこからドイツやイギリス、トルコなど、どんどん海外に行くようになりました。

注釈2 表現の現場展 ’89関連イベントとして1989年10月29日に学生たちが主体となって開催された。〈パネラー〉金子多朔(かねこあーとギャラリー)、倉林靖(美術評論家)、前山裕司(埼玉県近代美術館学芸員)、村田真(美術ジャーナリスト)、稲垣立男(油画)、高橋陽子(陶芸)、阿部茂(彫刻)、馬渡響子(版画)、樋口薫(日本画)、司会・梅津元(芸術学)。

遠藤 レジデンス・トラベラーですね。

稲垣 そうですね。レジデンスとコンペですね。賞金稼ぎみたいな(笑)。当時は競争がいまほど激しくなかったんです。ほぼ情報がなくて、ひとりでひたすらやっている感じでした。

遠藤 先行者という感がありますね。ひとつ質問なんですが、現地に飛び込んでゼロから制作すると言っても「必殺技」はありますよね? メディウムの扱いというか、制作技術というか。

稲垣 なんだろうな、「行った先で親切な人を見つける」とかですかね(笑)。展示というものに対しては、いろいろ対応可能な技術はもっていると思います。学生時代、銀座のINAXギャラリーで働いていて、展示を構成するというのはそこで学んだところが大きいですね。なので展示に関しては大丈夫と思っていて、むしろ行った土地土地でアイデアを着想するところに集中しているという感じです。そうするとリサーチが肝になってきますね。

遠藤 だいぶ稲垣さんの背景がわかってきました。ありがとうございます。そのような前史があったうえで、稚内に赴任なさって宮前さんの痕跡のようなものを感受することになりますね。実際、どう思われましたか?

稲垣 宮前さんとは生前に一度くらいしかお会いする機会はなくて、僕の中では「画家」というイメージが強かったんですね。稚内で同僚の方々からいろいろ話を聞くうちに、宮前さんがさまざまな試みをしていたことがわかってきました。それを概観した時に、まず率直に思ったのは、ちょっと自分とはタイプが違う発想をしているな、ということでした。私はずっと海外に出ていて、宮前さんは東京を中心に活動してきた。さらに言えば、いろいろなことがまだあまり整理されていない90年代という時代のなかで、宮前さんがワークショップをやり出して、それがシーンの中ではあまりうまくいかなくて、大学に赴任してその展開を試みた。少し冷たいかもしれませんが、そういう流れが客観的にみて面白かったんです。

遠藤 まだあまり整理されていない90年代というお話でしたが、宮前さんの活動の中にはジャンルの乱立がありますよね。ワークショップ、コミュニケーション、メディアなど、いまは普通の言葉が、当時はかっこよかった感じがあります。

稲垣 それはめっちゃ90年代ぽいですね(笑)。

遠藤 メディア・アートも、自由ラジオのようなオルタナティブな発信/受信をめぐるものと、装置によって人間の身体を拡張する的なものは大きく異なると思うんですが、どちらもやっていますよね。

稲垣 そのへんはごちゃっとしてたと思うんですよ。宮前さんはお父さんが日本画家で本人も日本画をずっとしていましたが、何か新しいことをしたいという気持ちがとても強い方だったと思うんです。だから、出てきたものを貪欲に吸収していった。政治的なデモに参加することもその一部だった。メディア・アートへの接近もそうです。そのなかで、人と一緒に何かやる、ということだけがワークショップとして、宮前さんの中に残っていったんじゃないかと思うんですね。

遠藤 法政大学の紀要3のなかでも、好奇心が強い人だったことが村田早苗さんに語られていますよね。「中途半端」という言葉も出てきます。今回のこの対談では、僕はこの「中途半端さ」を積極的に語り直してみたい気持ちがあります。

注釈3 大榎淳/稲垣立男/鈴木正美 「地域コミュニティとアート vol. 6「宮前正樹とworkshop」」、法政大学国際文化学部「異文化/異文化」13巻、pp68-113、2012年

稲垣 良くも悪くもそのように突っ走った人だと思います。

遠藤 少し話を戻しますが、稲垣さんはレジデンスで世界をめぐってから稚内に赴任され、宮前さんの残したものをご覧になった。自分とは違うと感じられた。つまりそれは、宮前さんが展開したコミュニケーションが「日本的なもの」だと感じられたのでしょうか。

稲垣 それはそうですね。何を日本的とするかは少し難しいかもしれませんが、私が海外で体感したアートとは別の、どこかローカルなものは感じたかもしれません。

遠藤 なるほど。もう少し具体的なワークショップに触れていきたいと思います。稚内時代の宮前さんの特徴的なワークショップはどういうものだとお考えですか。

稲垣 僕の理解ですが、宮前さんはいろいろなことを試行した上で、最終的には人と何かを一緒にやりたい、というのが強くなったんじゃないかと思います。それが宮前さんのワークショップだと暫定的に考えています。ダイレクトに人と結びつくこと。絵画や彫刻、広い意味でのメディアを介さずに直接に人と繋がることをやりたかったんだろうと思うんです。

遠藤 キャッチボールはまさにそのようなものですね。しかし美術館などに呼ばれて行うワークショップと、稚内で大学教員として生徒に対して行うワークショップは性格が違うんじゃないでしょうか。

稚内北星学園大学での稲垣立男

稲垣 私の場合は間違いなく違いますよね。付き合っていく長さが違うんですよね。学生は長期間を想定できるので、段階に応じて変化なども少しずつ織り込めるんです。ひとりひとりの学生に対して深掘りしていくことができる。街場でやるものは、その土地と関連したものが多くて、その土地のコンテクストを改めて見直してみるように促す性格があります。根本的に作り方が違うと思いますね。

遠藤 宮前さんは、赴任してすぐに多くのワークショップを開発し始めたと思うんですが、そういった長期的な教育機能に関してはまだ認識していなかったかもしれませんね。

稲垣 むしろ、それまでは美術のフィールドで予算や企画者の要望などの条件があったと思うんですが、それがなくなったことによってワークショップという手法の自由な探求ができるようになったんだと思います。学生とダイレクトに対話しながら場が作れるのが楽しかったんじゃないでしょうか。

遠藤 すいとんづくり4とかしてますよね。リクリット5とか知らずにやっているのではと推測しています。大学の建物でフロッタージュをする6とかも岡部さん7への参照なしにやっている気がするんです。美術的というか業界的な発想が抜けたところで、形式としては同じものを、かなり気楽にやっている。

注釈4 稚内北星学園大学の第1回目の授業として開かれたワークショップ。
注釈5 リックリット・ティラヴァーニャ(1961〜)。ブエノスアイレス生まれのタイ人アーティスト。1990年にポーラ・アレン・ギャラリーで開催された《パッタイ》において、会場で手料理をふるまい大きな衝撃を与えた。同作は〈関係性の美学〉を説明する際に最も引かれやすい例でもある。
注釈6 稚内北星学園大学「メディアと表現」コースにて2000年4月に開催されたワークショップ。
注釈7 岡部昌生(1942〜)。北海道根室市生まれ、北広島市在住。歴史的な土地や見物を題材としたフロッタージュ技法の作品で知られる。

すいとんづくりの様子

稲垣 作品として完結する必要がない、というのが大きいですよね。毎回、不完全、未完成でもよくて、また継続していける、改良もできる。とりあえず勢いさえあればなんとなかなるというのが宮前さんの特徴かと思いますね。

稚内北星学園大学でのワークショップ「映像伝言ゲーム」

遠藤 教育という意味で、学生に知識や技術を伝授する前提を完全に外していますよね。「そういうものではない」が前景化しているというか。学生としても、ワークショップの説明を聞いた瞬間に自由になれるような、そういう効果を確実に狙っていますよね。

稲垣 何かを一方的に教えるというスタンスは完全にないですね。そこは私も引き継いだところです。むしろアイデアの出し方についてですよね。例えばルーズリーフの紙を1枚渡して、これでなにかやりなさい、という授業があったみたいなんです。そこで宮前さんがやったことは、それをビリッと破いて「ビリー・ジョエル」と言ったという(笑)。

遠藤 その話どこかで読みました!さらにヒラヒラさせて「ヒラリー・クリントン」って言ったんですよね(笑)。

稲垣 そうそう(笑)。一緒にやっていた先生がそれでたじろいだらしいです。そんなこと授業でやっていいのか、と。おそらく当時の感覚では斬新というかびっくりしたでしょうね。

遠藤 稲垣さんにも似たようなところがありますよね。

稲垣 そうですね。そもそも宮前さんの同僚の方々が、私の経歴を見て「雇おう」となったわけなので、ある種の共通性はあるんだと思います。宮前さんのアイデアを引き継ぐことを期待されていたと思います。

稚内北星学園大学でのワークショップ「ダンボールハウス」
同上

稲垣 宮前さんの方が少し年上ですが、ほぼ同じ時代を生きてきたと思うんです。私が赴任した2003年時点で、宮前さんの残したものを見て、私も「確かに大学の授業はこのように展開してもいいはずだ」と思えたんですね。さらに言えば、宮前さんとも私とも同僚となる稚内の教授陣ですよね。藤木正則さんも作家でしたし、鈴木正美さんはロシア文学専攻ですが、ロシアの前衛ジャズのミュージシャンでもあって。

遠藤 稚内に恐るべき時代があったわけですね。稚内のその空気感って時代性を帯びていると思うんです。90年代と00年代の転換のようなものがあるとして、僕はそこに忘れられたものがあると踏んでいます。その後の現代美術の制度化からは漏れたもの。リレーショナルな転回を経てなお顧みられない領域というか。
ところで、宮前さんの成り立ちについて思うんですが、まず画家としてのベースがありますよね。そこにメディア・アートのようなものが乗っかって、さらに教育者としての活動が追加される。その本筋をワークショップというものが斜めに横切っているような感覚がある。

稲垣 なるほど。私が思うに宮前さんには企画者としての資質があったと思うんです。自分でギャラリーを作ったりもしていましたし8、イベントを起こすのが好きだった。

注釈8 スタジオ4F。1983年に宮前が神田に開館したアーティストによる自主運営ギャラリー。いまでは珍しくないが当時は画期的なものだった。村田早苗によるとそれは宮前の母親が生協に勤めており、そのモデルを援用したものである。(「地域コミュニティとアート vol. 6「宮前正樹とworkshop」」、p42)

遠藤 そうなんですね。僕はそれでも画家としての特質を少し留めておきたい。そこにメディア・アートの流行があり、企画者としての資質があり、教育者としての自覚があった。この塩梅がポイントかなと思うんです。何が言いたいかと言うと、ワークショップになにか本質的なものがあって、ワークショップなるものが目指されていたわけではないと思うんですね。あるいは、コミュニケーションをメディウムとして、自覚的にワークショップという形式を追求したわけではないだろう、と思うんです。

稲垣 一点だけ言えるとしたら、一般的な意味での教育、エデュケーションとワークショップが結びついていないんですよね。上下関係みたいなものを外して、遊びに変えていくという感覚が近かったんじゃないかと思います。ごっこ遊びですよね。

遠藤 再びキャッチボールですね。

稲垣 シンプルですよね。

遠藤 キャッチボールが「作品」であると宮前さんは思っていたんでしょうか。もちろん、のちにリレーショナルな美学以降の整理によって、相互行為が美学化されうるという共通了解ができたと思うんですが、宮前さんはそのように考えていなかった気がするんです。

稲垣 それはそうですね。私自身もそういうところがあるのでわかるんですが、「作品」という枠組みそのものに疑問がある、ということだと思います。作品という規定性の外にあるものを探したい、というのが宮前さんにあったと思います。キャッチボールにしても、それが作品かそうじゃないかという議論があるにせよ、彼本人はすくなくとも「アーティスト」として取り組んでいた。

遠藤 作品という形態から離れるために選ばれた形式であり、アーティストとしての自覚はあったということですね。

稲垣 リレーショナル・アートというよりも、彼はハプニングやパフォーマンスの文脈を踏まえていたと思いますね。それこそフルクサスだったり。

遠藤 なるほど。しかし、その文脈はあまり見えてこないですよね。本人が明示していたかどうかわかりませんが、稲垣さんが企画された展覧会においても、宮前さんの「美学的」な参照点や文脈については語られていない。それは意図的なものだろうと僕は思うんですが。

稲垣 私は批評家でもなんでもなくて、むしろ現場の人間なのでそのアクチュアリティの方を展覧会にしようとしました。ゲストの方に来てもらって、現在進行形のプロジェクトやレジデンスを入れ込んだのもそのような意図があります9

注釈9 前述「宮前正樹とワークショップ」展は、宮前の残した記録等を展示するにとどまらず、多数の関連イベントが企画された。さらには山本高之、藤木正則、開発好明のレジデンス・プログラムも実施されており、単なる回顧展ではなく、宮前のワークショップを再起動させる試みだったと言える。

遠藤 そこが稲垣さんによる宮前展の重要なキュレーションだと思っています。文脈化して作品として再評価することを前提としていないというか。言い方はあれですが、現在進行形というのは、なし崩し的な側面もありますよね。宮前さんの場合、いろいろな条件反射を重ねていった結果としてワークショップが生成しているという、そのぐだぐだ感、中途半端さが際立っていると思うんです。少なくとも美学的・美術史的に戦略的に活動した方ではなかった。

稲垣 それはそうですね。私もそうなんですが(笑)。特に90年代は、たいした情報がないんですよ。統合されて整理された情報がなかったんです。むしろ、新しい情報って、なんかふわふわしてたんですよ。ふわふわっとバラバラにやってくる感覚です。ぐだぐだ感、中途半端さっていうのは、そこに起因するんじゃないかな。

宮前正樹とワークショップ展・トークイベント(開発好明×村上タカシ)
同展トークイベント(山本高之×永山智子)
同展トークイベント(藤木正則×鈴木正美×稲垣立男)
同展オープニングイベント(武井よしみちパフォーマンス)

遠藤 いまその「中途半端さ」が重要だという理路が成立すると僕は思っています。そこまで戻る必要があるのではないか。このあとに起こったリレーショナルやソーシャルの整理のようなものが、本質的には物事を貧困化させている気がしています。

稲垣 それはそう思います。宮前さんのキャッチボールについて「リレーショナル」に評価しよう云々、と言われると私は「勘弁してよー」と思っちゃいますね。宮前さんって、もう少しふわっとしていて、何かを探っていたような気がするんです。

遠藤 例えばですが小沢剛さんの「なすび画廊」にしても、リレーショナルかつ制度批判だった、とあとから言うことはできるんですが、それよりもたぶん、なんとなくそうなったという性格が強いと思うんですよね。中途半端に、ふわふわと、探り探り、やっていた。ここまでで、到底強い概念にはなり得ないと思うんですが(笑)、僕が考えたい言葉が揃ってきたと思います。

稲垣 現在のように物事が整理されてくると、作り手としてはどんどん不自由になっていく側面はありますよね。

遠藤 「コミュニケーションがメディウムである」という立論は、論理の位相を誤っているというか、下品だな、というふうに思うんです。コミュニケーションって、ただ頑張ってするものじゃないですか。その結果、うまくいったりいかなかったりする。ただそれだけでしかないというか。宮前さんの成したことは総体として、頑張ってやりきった、その結果としての雑然とした、かつ、毅然とした中途半端さがある。

稲垣 そうですね。なんとかアート・プロジェクトみたいな、隙のない感じになっているものではないですよね。考えがとっちらかっていたり、断片的だったりしますよね。逆にそれが真っ当かな、と思うんですよね。

遠藤 それが風通しの良さを生んでもいる。いま必要な態度というか、そういうものがあると思いますよね。

稲垣 それがまた形式になるのは怖いですけど。

遠藤 いや、それはならないと思いますよ。意図と結果が合致していないと思うんです。宮前さんはメディア・アートとして、あるいは現代美術として、これがばっちり!と思ってやっていたと思うんです。それが結果としてそうなっていない。

稲垣 そうかもしれません。彼はビシッと決めポーズを作っていたと思います。でも、それを横から見てみると、矛盾があったり、雑なところがあったりするんですよね。

遠藤 決めきれていないですよね。でも、稲垣さんもおっしゃいましたが、それが真っ当なんじゃないでしょうか。ここで、個人的な僕の唯一の宮前体験をお話しすると、それは川崎市民ミュージアム前の抗議行動10なんです。大学2年生の僕はなぜかそれに参加していました。年上のお兄さんたちが、なんかラジオ放送のようなことをやっていたり、上野俊哉さんが拡声器片手に叫んだりしていました。でも全体的には川崎の間伸びした公園の中で、集まった人もたぶん10人もいなくて。で、僕の記憶では傍でキャッチボールをやってる人がいたんですよね。いま思うとそれが宮前さんで。僕の中では、天皇制や美術館の検閲について反対の声を上げることと、その横でキャッチボールをすることがシームレスにつながっているんです。むしろキャッチボールがあるから天皇制を批判することが可能なんじゃないかとすら思えるような、そういう説得力があの場にはあったんです。

注釈10 大榎淳による天皇の肖像をモチーフとした写真作品が展覧会当日になって公開中止とされた、いわゆる「富士ゼロックス事件」に対してオーガナイズされた抗議イベント。

稲垣 そんなことがあったんですね。

遠藤 キャッチボールって、やっぱりとてもいいんですよね。

稲垣 目的化されていないですよね。そういうものって今の時代では説明が難しくなっていますよね。ぼやーっとしてますからね。

遠藤 とても美大で教えられるものではないですよね。形式が強いわけではないですし、メディアアートにもなっていないし、リレーショナルな美学とも言いがたく、いわんや社会政治的意義があるとも到底いえない。まったくなんにもなっていない。けれども、無目的の美学のようなものもない。いまの世の中は「キャッチボールでいいじゃん」という世界ではなくなってしまっていて、だからこそもう一度考える余地があると僕は思っています。僕がもうひとつ推測していることがあるんですが、宮前さんの中途半端さのなかには、積極的ではなくて消極的な、滲み出るような反商業主義があると思うんです。大上段に言ってしまえば資本主義批判です。しかしそれがある種「受動的」に発露している。意図せぬ結果を堂々と生んでしまっている。この感覚は僕が稲垣さんの活動をみていても思うものです。

稲垣 宮前さんはビジネスセンスがある人ではなかったです。日本画のスキルはあったと思うので、その道に進むこともできたと思うんですが、それを捨てていった側面はあると思いますね。それで私の話をすると、私はそもそもビジネスをやるのが無理なんです。一般的な意味でも現代美術的な意味でも商業的にうまくいくようなことはそもそも向いていないし、できないんです。

遠藤 パロディというか茶化しみたいなものもないですよね。80年代的なものというか。シミュレーショニズム的な感性も宮前さんにはないですよね。稲垣さんにも。

稲垣 そうですね。風刺とかアイロニーとかそういう感覚は私にはないし、宮前さんにもなかったでしょうね。

遠藤 文脈崩しみたいなことも、それはそれで別の勝ち筋なんですが、それもない。やっぱり、「受動的なできてなさ」が前提条件になっていると思うんです。成功を目指そうが目指すまいが、「できない」という前提。これは反資本主義や非商業主義を標榜するのとは全く違う話です。この、自分の意図がどうあれ「できない」というのを、失敗として無にするのではなくて、新たな何かの条件にできないでしょうか。

稲垣 作り手としての私はそこまで達観できないです(笑)。私のなかでは、それでも現代美術をやっているという感覚はあるんです。人と一緒にやるというのも、現代美術のなかから出てきた発想です。ただ、最終的なアウトプットが現代美術的に、業界的に成功しているようなものには、どうしてもならないんです。

遠藤 なるほどです。すいません。悪い癖で先回りしたかもしれません。

稲垣 私の場合はリサーチやフィールドワークという概念を重視しているからかもしれません。そこの部分はどうしても商品化できない部分ですよね。でもそこにアウトプットよりも重要なものがあると考えているからかもしれません。

遠藤 わかりました。でも、僕が少し懸念するのは、リサーチやフィールドワークを強調しすぎると、それはそれでコミュニケーションの専制というか、プロセス優位の価値化みたいになりそうで。やっぱり、リサーチもフィールドワークも「たいていはうまくいかないもの」だと思うんです。

稲垣 遠藤さんに言われて思ったのですが、私の中にはすでに当たり前に宮前さんへの共感があったのかもしれませんね。駄目なもの同士(笑)。宮前さんのピュアなところが好きなんでしょうね。何かをうまくまとめようとか、何かの批判として何かをやろうとか、そういうところが宮前さんには全くなくて、私はそれにシンパシーを感じていたのかもしれません。ただ私と違って宮前さんには人間的魅力があったんじゃないかな。お葬式にもたくさんの方が集まったと聞いています。

遠藤 人間的魅力ですか。

稲垣 そうですね。彼のワークショップも、彼が説明するから成立するようなところがあったと思います。

遠藤 でもその人間的魅力をキャラ化してはいないですよね。

稲垣 そんなに器用な方じゃなかったと思うんです。セルフ・プロモーションのようなこともできなかった。

遠藤 自意識、実存みたいのものを受け入れられる形に整えて出していくようなこともしていませんよね。もっと単純に言うと、宮前さんも、そして稲垣さんも自分を特別だと思ってないですよね。

稲垣 そうですかね。特別さの出し方が現代美術的ではないですよね。

遠藤 広い意味で現在のメディア的ではないです。かと言って、「一般人」を代弁しているわけでもない。むしろ、純粋にアクターで良いという諦念というか「観念した」という意味の観念があるように見えます。

稲垣 褒められているんでしょうか(笑)。

遠藤 でも、奇跡的なことだと思うんです。美大を卒業して、現代美術をやると決めて、自分が特別ではないって観念すること、によって開始される作品の形態がある。すごくないですか。それが、なんてことはないワークショップなんです!
もう少し言うと、宮前さんにはコンセプチュアリズムと記録のふたつが欠落しています。このふたつは現代美術的な何かを明確に体現していると思うんですが、それが全然ない。非礼を承知で言いますが、稲垣さんにもまったくないです。

稲垣 (笑)。そうですね。そこは申し訳ないくらいにふたりともダメダメですね(笑)。

遠藤 それがないということを僕はここで肯定的に捉えているんです。誤解しないでくださいね(笑)。例えばですが、リクリットにもフィッシュリ&ヴァイス11にも、コンセプチュアリズムと記録の概念はあります。むしろそれが骨格です。それがないと現代美術にはならない。宮前さんと稲垣さんに共通するのは、そのコードがないかのように振る舞えてしまっているところです。

注釈11 ペーター・フィッシュリ(1952〜)とダヴィッド・ヴァイス(1946〜2012)。スイスのアーティスト・デュオ。写真、映像、彫刻、インスタレーションを横断し、「日常的事物の記録と転用」を基盤に制作した。代表作《事の次第》(1987)は、廃材や日用品が連鎖的に反応してく様を16mmフィルムで記録したもの。

稲垣 また微妙な方向から、貶されているのか褒められているのか(笑)。私なんかは駄目なんでしょうね。その辺を大事だと思ってないんでしょうね。

遠藤 大文字のアートを背負う必要がない。あるいはできないにも関わらず美術は可能だと思ってしまえる。こうした点においては、とても日本的なものかもしれないと思っています。この「切実な気楽さ」のようなところから、美術を考えたいというのが今日の僕の気持ちなんですね。めちゃ褒めてますよ(笑)。

稲垣 あんまりそれを言われると反論したくなりますね(笑)。自分の中にアートを背負っているという気持ちがないわけではないんですよ。けれども、自分で自分のやっていることを、追っかけきれていないんです。まとめられない。逆にコンセプチュアルであるとか記録を先行させることをすると、自分の身動きが取れなくなるんだと思います。

遠藤 自己言及性がないということでもありますね。もうひとつ思うのは、総合力も低いです。宮前さんと稲垣さんは。

稲垣 ほんとうに誉めようとしていますか(笑)。

遠藤 「地域アート」の成功例というのは、コンセプチュアリズム、見栄えのインパクト、参加者や地域への還元、いくばくかの批評性、記録の蓄積、行政など主催者への価値の伝授、経済的利益などなど、総合力の話だと思うんです。総合点が高くなければいけない。

稲垣 そう言われると私なんかは完全に落ちこぼれですね(笑)。

遠藤 とは言ってみたものの、稲垣さんにはアーカス12ではお世話になりました(笑)。

注釈12 アーカス・プロジェクト。1994年に茨城県が主催(守谷市なども共催)し、守谷市を拠点に1994年より開始されたアーティスト・イン・レジデンス・プログラム。日本のAIRの草分けとも言える。開館時のディレクターは辛美沙。その後、帆足亜紀を経て遠藤は第3期のディレクターとして2007-2010年に勤務。その在職期間中に稲垣をモデレーターとする「親子で楽しむアート」が開始された。

稲垣 そうですね。あれは楽しかったな。学生もよくやってくれたし。アーカスでやれたのは自分の学生と地域の小さい子とを一緒に考えてみることだったんです。幼児という未熟な存在と、学生という未成熟な存在を同時にみてみるということでした。

遠藤 複雑なことをやっていたんですね。僕は「なんかいっつも、ゆるっとやっていて、いい感じやなー」とだけ思っていました。

稲垣 守谷だからできたということもあると思うんですよね。だから、宮前さんはもっと長生きしてほしかった。もっと見たかったというのはありますよね。あのまま稚内にいたらどうなっていたのかと思うんです。日本の最北端から別の地域アートのようなものが勃興していたかもしれません。

遠藤 僕はもともと道民なのでわかるところがあるんですが、おそらく宮前さんのワークショップと道民性って親和性がありますよね。おおらかさ、頓着しない感じ、無邪気さのような。

稲垣 それは私もわかりますね。

遠藤 でもそれは中断されてしまった。つまるところ、ミッシングリンクという感じがしています。商業化できず、コンセプチュアリズムもなく、記録もなく、自分のことを全然特別と思ってない。それって、現代美術としての価値が、ほとんどないです(笑)。でもそこから始められる政治がある。僕は宮前さんのワークショップというものを、美学的に評価するのではなくて、純粋な政治だったと言うべきだと思っています。現代アート的にどうとかリレーショナルにどうとかではなくて、アーティストによって政治が始められた、と捉えるべきです。他の多くのアーティストが政治的であったり、政治を使ったりしていますが、政治を始めてはいない。

稲垣 もう一回くらい宮前さんをテーマにしてなんかやった方がいい気がしてきました(笑)。今回は私がある程度代弁してしまいましたが、ほかにもいろいろな方が言いたいことがあると思うんですよね。

遠藤 ぜひやりましょう!稲垣さんが宮前さんを発掘してくれたおかげで端緒が開かれたんじゃないでしょうか。次回はいろいろな人と一緒に。合言葉は「ミヤマエを超えろ」でしたよね13。その言葉はまだ生きているはずです。

注釈13 1997年の佐倉市美術館における宮前のワークショップのボランティアたちをもとに結成され、1999年から2004年まで活動した IFS(Inter-art Forum Sakura)では、ワークショップ考案の場などで「ミヤマエを超えろ!」が合言葉として交わされていた。

遠藤水城×稲垣立男

プロフィール

遠藤水城×稲垣立男

遠藤水城 1975年札幌生まれ。2004年、九州大学比較社会文化研究学府博士後期課程満期退学。現代美術を専門とするキュレーターとして、これまで国内外で数多くの展覧会や芸術祭の企画を手がける。アーカス・プロジェクトのディレクター(2007-2010年)を経て、2011年より「東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)」代表。また2017-2020年はベトナム・ハノイ市に新設された「ビンコム現代芸術センター」芸術監督を務める。主著に「陸の果て、自己への配慮」(PUB、2013年)。国際美術評論家連盟会員。

稲垣 立男(いながき たつお)コンテンポラリーアーティスト。法政大学国際文化学部教授・学部長。フィリピン大学芸術学部客員研究員(2018~2019)、セントラル・セント・マーティンズ美術大学客員教授(2012~2013)、Asian Cultural Councilグランティ(2000)。フィールドワークを基とした作品制作や美術教育に関する実践と研究を行う。1992年のVIVA EXCON(フィリピン)参加を契機に国際的な活動を開始し、これまで欧州、アジア、米国、中米、オーストラリアでプロジェクトを展開。近年はCommunity – Residency for Anthropologists and Artists(2017、イタリア)、VIVA EXCON(2016~2023、フィリピン)などの国際展に参加するとともに、チェコ・西ボヘミア大学のArtCampやフィリピン・デラサール大学のBacolod Workshopなど教育プログラムで講師を務める。研究者としては、フィリピンを中心に東南アジアのアート・コミュニティの調査や、大学教育とアート実践を結ぶプログラム開発に取り組んでいる。